Odajima's clitic
「芭蕉蛙」から「場所を変える」に至る視座転換の後味
ないしは、ナカゴミ式視覚神経テロの残像について
十五年ほど前、はじめて自分の単行本の装丁について意見を求められた時、私は、咄嗟に中込靖成の名前をあげた。
中込君とは、当時、嫁さん同士が高校の同級生という縁で知り合ったばかりで、実際のところは作品を見たこともなかったのだが、それでも私が真っ先に彼の顔を思い浮かべたのは、世の常の装丁作家の仕事に不信感を抱いていたからだと思う。
実際、本の装丁は、営業上の理由もあって説明的な(つまり、言葉で何かを言おうとしているような)絵に落ち着き勝ちなものなのだ。
中込氏のアート(あえてここでは絵とは呼ばない)には、ひとっかけらも説明的なところがなかった。説明どころか、逆に、見る者に答えを要求してた。
素晴らしい。私が想像した通りだった。
表現者は、答えを提示するよりも、むしろ、問いを発していなくてはいけない。
さて、我々が暮らしている世界は、問いを欠いた答えばかりが溢れている世界だ。そこでは、あらゆる具体物が固有のフォルムと色と質感を備え、それらひとつひとつの具体物の集積によって構築された視覚世界の鉄壁の秩序には、一点の疑問の余地も残されていない。
その世界に対して、中込は疑問符を投げかけている。
さきほど、私が彼の作品を「絵」と呼ばなかったのは、彼の視覚芸術が額縁の中で完結しておらず、また、枠組みの中に収まろうともしていないからだ。
というよりも彼の作品は、何かの一部分であり、また、あらゆるものを部分とするひとつの全体であり、さらに言うなら、おそらくは視覚世界と幻想世界の境界領域に通路を開こうとする試みなのである。
目をこらしてみるとこのことが良く分かる。
画面の一部分に焦点を当ててみると、その一部分は作品全体とまったく相似形の、ひとつの全体として独立している。また、全体に目を転じてみると、その全体は、さらにそれ自体を一部分として成立する全体に連なろうとしている。
コンピュータ幾何学の世界では、自問する図形を「再帰」と呼ぶ。
具体的には「ある全体の一部分が、どの一部分をとってもその全体と相似である」ような図形ないしは数式曲線のことを「再帰図形」と呼ぶのである。つまり、数式の中に自分自身(の解)を含んだ数式は、堂々めぐりをしながら、永遠に相似な図形を描かざるを得ないわけだ。
中込君が提示する絵柄は、人間が手作業で描いたものであるにもかかわらず、見事なばかりに再帰している。
もしかしたら、彼は、「作品」という一部分の中に、「世界」という全体を取りこもうとしているのかもしれない。
そんなことが可能だろうか?
壮挙といえば壮挙だが、もし彼が全世界を作品の一部分たらしめようとしているのであれば、その態度はなんだか、風車に向けて槍を構えていた騎士のようでもあり、古池に入水する蛙のようでもある。
古池?
そう、私は芭蕉の古池の話をしようとしている。
【古池や かはずとびこむ 水の音】
という、例のアレだ。
一般的な解釈では、この句の真骨頂は
『「水の音」によってかえって強調された古池の静寂』
てなことになっている。
が、それだけではないと思う。
一匹の蛙が池の水面に飛びこむことで生まれた同心円状の波紋は、完全に静止して見えた古池の構図に、ある致命的なストーリーを与えている。
つまり、波紋という時間関数が介入したことで、一見、万古不変であるかに見えた古池の水墨画が前提のところから粉砕され、結果として、古池の静寂が実は諸行無常の相のうちにある一瞬の眩暈に過ぎなかったことが証明されてしまっているのだ。
中込の作品は、われわれのヴィジョンの中に一匹の蛙を放りこむ。
と、それまで確乎として動かないかに見えたわれわれの視覚世界はにわかにかき乱され、水面に波紋を生じたヴィジョンは収拾のつかない変容の相の中に突入してしまう。
後戻りしようとしても、既に、アートの祭りである。
いや、バカな駄洒落であることは承知している。それにこれは石井竜也のネタであった。
ともあれ、私のように文章を書くことを仕事にしている人間は、いつしか意味やら論理といった言葉の基本構造に対して苛立ちを覚えるようになるわけで、時に他愛のない駄洒落を飛ばしてみたくなるものなのだ。というのも、駄洒落は、言葉を取り囲んでいる意味と論理の連環構造に対して、音というまったく異質な方向から一矢を報いようとする意思であり、言わば修辞学上のテロルだからだ。
その意味で、中込のアートもまた視覚神経に棲みついた常套句の破壊を志すひとつのテロルだ。
彼の作品は、本人が意図しているかどうかはともかく、視る者のヴィジョンに対する破壊工作を含んでいる。
それは成功しているだろうか?
たぶん、イエスだ。
彼の作品群は、未完たることにおいて進行中であるという逆説的な過程を踏みながら、私たちの内なる視覚を侵食しつつある。
油断は禁物である。